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千葉の酒物語り

(その五)

二、千葉の酒物語り
 〔4〕激動の昭和酒造史ー戦前編(上)

 [恐慌により昭和の幕開け]
 金融恐慌が昭和の扉を荒々しく押し開いた。関東大震災のため震災手形が緊急勅令によって設けられ、その処理に端を発し銀行取り付け騒ぎが発生。昭和2年金融恐慌まで発展してしまう。普通銀行の六行に五行までが、合併吸収あるいは休業し消滅した。
 昭和四年、ニューヨークウォール街は「暗黒の木曜日」を迎える。株価の暴落は世界恐慌に発展し、資本主義に襲いかかった。

 昭和の暗い幕開けにより、清酒業界も慢性的な不況に陥る。
昭和四年の全国製造場数は八九四七場、査定高四二三万八三八三石に終わる。昭和元年にくらべ六二〇場が廃業し、五六万五六五二石減と大幅に落ち込む。
 もちろん千葉県も同様だ。千葉県の清酒製成石数は、大正後期より次第に減少し昭和元年には七万四八七〇石(一五七場)である。それが昭和五年には四万六三五三石と落ち込む。四年間で約四割減少し、二九の蔵が消えた。
 昭和七年にやっと五万石超に回復、その後昭和一三年まで五万石台を維持する。

 清酒の生産量の減少は、販売不振に他ならない。売れなくては造ってもしょうがないので、生産者は多くの景品を付けて販売するようになる。昭和二年九月一二日、東京酒類商同業組合は、全国酒造組合中央会へ乱売の自粛を求める懇請状を提出する。
 景品を付けて販売するのは邪道である。だが、そうしなくてはならないところに不況の深刻さがある。
当時、酒代の回収は年二回が普通であった。売掛金の回収が出来ぬまま、酒税の納期が迫る。酒をダイピングしてまで納税しなければならなかった。造石税のため、販売できなくても造れば課税されるからだ。
 清酒に限らず昭和六年ビールも乱売をエスカレートさせた。大正一〇年には大瓶一本五〇銭だったのが、キリン、エビスは三〇銭で廉売する。オラガ、スピードビールはさらにその半値だった。

 [甘くて荒い酒質]
 明治から大正にかけて、清酒は辛口全盛であった。だが昭和に入ると甘口がもてはやされるようになる。戦争により、甘いものが欠乏した反動ともいわれる。
 昭和元年、日本酒度は+4.3度でまだ辛口である。昭和三年には+1.4で旨口に、五年には−1.4、七年には−4.6と甘口傾向が強まり、一三年には−10.5度と大甘になる。エキス分も7%台で、比重の大きい甘口の酒だ。

 全国清酒品評会は一年ごとに開催されていたが、昭和一三年を最後に中止される。前年に日中戦争に突入し、統制経済の影響がすでに現れた。特に吟醸用の高精白米が問題視される。
 当時、清酒1000石は、醤油一万石に匹敵すると言われた。小さな蔵は1000石造りを大きな目標に揚げた。昭和一〇年では、千葉県の平均醸造量は四三三石(一二四場)である。
 醸造は酒質より安全発酵を最優先に考えられていた。千葉の仕込み水はかなりの硬水で、昭和三八年の千葉県工業試験場の調査によると、平均高度は七.八度で非常に高い。特に海岸部で高くなっている。
 北総台地など軟水の湧く蔵は、海水を混ぜて硬度を高め仕込むこともあった。硬水は酵母菌に栄養源を供給し、活発な発酵が行われる。しかも温暖な千葉では、発酵が抑えきれず進みがちになる。安全で強い発酵には好条件の水だ。
 反面、当時の精米歩合と醸造技術では、荒くゴツゴツとした酒質は避けられなかった。
 また販売量に関係なく、醸造査定した量で課税される造石税であるから濃い酒が歓迎された。販売時に水で割り、増量させればその分量だけ節税にもなった。
 当時は全量純米酒である。アルコールも糖類も添加しない。そのため荒い酒質は直すことはできない。低温発酵で、きめ細かい味と香りをもつ現代の純米酒を想像してはいけない。当時の清酒は大変甘く、濃純な荒い酒質であったと想像できる。活性炭の濾過は一般的ではなく、淡い山吹色に輝いていた。

 [戦費は酒税の大増税で]
 大陸の戦火は拡大する一方だった。戦費も天井知らずである。一般会計予算(約二八億円)を遙かに上回る臨時軍事費特別会計追加予算四八億五〇〇〇万円を帝国議会に提出された。
 臨時軍事費の財源は公債に求めたが、結局は大増税するしかない。その大部分を酒税に頼り、増税に継ぐ増税となる。
 
 昭和一二年、造石税は一石当たり四五円になる。一三年庫出税五円が新設され合計五〇円、その後は一四年五五円、一五年七〇円、一六年一〇〇円となる。
昭和一八年に酒造法の改正。造石税一石45円は据え置き、一級から四級までの級別制度を設け、庫出税を一気に増大させる。
 清酒一級酒の庫出税は一石四七〇円、二級酒二九五円、三級酒一六五円、四級酒一五五円であった。
翌年には四級酒を廃止、一級酒を九九五円に倍増。一升当たりの酒税は九円九五銭になる。なんと小売価格一二円の八三%を占めるが、それでも品不足の酒を求めた。酒飲みには暗黒の時代が始まる。さらに二〇年には三級酒を消滅させ、一級酒を一二四五円に増加。酒税制度は一変し、級別制度はその後半世紀にわたり清酒を規制した。

 昭和元年の千葉県の酒税は三六七万五六一九円で国税全体の44%、間接税の94%とほとんどを占めている。地租を遙かに上回る。
昭和一〇年には、さらに国税の54%、間接税の99%をも酒税が占めた。
 昭和一四年度から清酒の生産量は、戦争の影響で否応なしに減少し、極端な品不足になり配給制度まで導入される。大増税の負担も、品質の悪化も重要な問題とされす、入手自体が困難であった。酒を飲めれば良く、酒質を問題にするどころではなかった。

 [自主規制の強化]
 清酒の生産量は昭和六年に最低を記録したが、一〇年、十一年と回復し、戦争とは無縁に見える。しかし着実に戦争の黒い手はあらゆる面に忍び寄っていた。
 昭和一二年八月、酒造組合法が改正、酒造組合中央会は最低販売価格を統制し、自主規制に動き、国家産業としての色彩を浴びる。

 昭和一二酒造年度(一〇月一日に始まる)から、需要関係を考慮し生産目標を定めた。昭和十一年の製成実績を基本石数に、その一定量を生産配分量とした。
昭和一三年度は、一二年の13%減の規制を行う。30名の統制委員のうち池田友一氏(富津市池田酒造店)が千葉県より選任される。
自主規制は形の上では成功といえるが、実質的な減醸とはならなかった。ただ基本石数の概念は確立し、配分石数は権利可する。配分石数の一年限り譲渡額は一石五円ぐらい、永久譲渡額は一石二〇円ぐらいで取引されたようだ。

 日中戦争は長期化し終結のめどは立たず、昭和一三年悪名高き国家総動員法が公布される。これにより、戦争のためなら、物資、生産、金融、物価、労働、あらゆる分野にわたり、政府の命令ひとつで強制的な使用が可能になった。
 さっそく酒袋、王冠、コルクが配給制になる。翌、一四年には米穀槝精等制限令が公布され、酒米はわずか6%と極端な低精白を目標とした。当時の平均精白は15%(精米歩合85%)程度であったが、6%以上は地方長官の許可が必要となり、毎年精白の低下が指導された。

 昭和14年度、酒造組合中央会は戦争遂行のため2割減醸を決意する。国策に先手を打った形だ。だが政府の意向はもっと激しく23%減醸を打ち出し、いったんは落ち着いた。
 しかし企画員は「酒造米平年度使用量375万石のうち、275万石減」を申し入れてきた。すべて現場で大混乱を招き、とても承服は出来ない。陳情など運動を重ねた結果175万石を節約することで合意をみる。清酒は半減するため品不足は目にみえていた。
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