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千葉の酒物語り

(その四)

二、千葉の酒物語り
 〔3〕束の間の安定・大正の酒

 第一次世界大戦の先勝気分に酔い、世の中の景気は好調である。大正八年度の全国清酒生産量は五八七万石にのぼり、第二次世界大戦前の最高を記録する。灘五郷は五九万石で一割を占める。灘の一場当たりの生産量は全国平均の二倍以上を誇る。
 森酒造に残されている大正七年の新酒価格協定によると、米は高価で支出の実に五割を占める。また税金も極端に多く支出の40%だ。
 大正八年、千葉県の清酒生産量は九万八一八石で、全国の1.7%にあたる。酒造場は185場ある。

 しかし好況は長続きしない。大正9年、株式商品市場は大暴落し、アメリカから端を発した世界恐慌の中に、酒造業界もどっぷりと足をとらえる。
 大正9年、全国酒造組合連合会総会にて満場一致で醸造石数の三割減醸を可決する。その余波で全国では444場、千葉県でも11場が廃業する。
 大正一〇年には、ほぼ清酒生産量を回復するが、大正十二年、関東南部を大地震が襲う。関東大震災である。当然、酒造業も大きな被害を受け、千葉県では68場二〇六三石の被害が出ている。
 関東大震災の復興は確実に実施されたが、先行き不安は累積し、物価は停滞気味である。景気が回復できぬまま、昭和二年の金融恐慌、四年の世界大恐慌へと不況は続いてしまう。清酒の売れ行きは低迷し、大正十二年には二八四万石を持ち越し、以降毎年のように持ち越し高は蔵出し高の五割を越えた。全国酒造連合会は、毎年のように二割減産を訴え続けるが、効果はなかなか現れなかった。

 さて、大正期の千葉の酒はどうだろう。
大正四年、第五回全国酒類品評会が日本醸造協会の主催で開催される。清酒三〇〇〇点が出品され審査を行った。清酒の審査点は、色14点、香り43点、味43点の計100点満点である。
 千葉からは五十三点が出品され、わずか八点の優等賞の中に千葉市の「花菱高千穂」が入賞。他にも一等に三点、二等に五点、三等に七点という優秀な成績だった。
 大正八年には「李白盃」飯倉清右衛門(旭市)が優等賞。その他にも入賞多数で、千葉酒の品質の高さは全国に鳴り響く。
 入賞できない大手メーカーは「宣伝、拡販のために、優等賞を目的に少量の吟醸造りに熱中している」と批判を強める。これはある意味で的をはずしていないが、品評会が技術の向上に献上したことは間違いなかった。批判は次第にエスカレートし、品評会をボイコットするまで発展するが、協会は狭き門を拡大することで批判をかわそうとした。

 大正初期の品評会のおける優良酒の平均アルコール度は17%前後と高かったが、大正末期に向かって徐々に下がる傾向だった。日本酒度も初期は相当辛口(約+10)だったが、やはり急激に甘口へと変化してゆく。この傾向はそのまま昭和へと続き、甘口化は一層明瞭になっていく。
 品評会では優秀な酒が次々と生み出されるが、一般大衆が口にするものとは別物だ。明治四十二年に、初めて一升瓶が登場するが、それでも一般的には小売りの店先で、樽詰めの酒を水で割ったり、他の酒をブレンドしたりして販売された。いわゆる量り売りである。小売店主のさじ加減一つで、酒質は大きく左右していた。

 大正期、千葉県には九つの酒造組合がある。その中で生産量の多いのは、一位が香取郡酒造組合、二位は海匝酒造組合、次いで長夷酒造組合となる。千葉県北東部で酒造が盛んなことがわかる。生産高三百石以下の造り酒屋は、全体の36%あり、千葉県南部に多い。千葉県の造り酒屋は小規模で、千石以上の造り酒屋は十六場で一割にも満たない。
 大正十二年の生産高は、九万三四三石で、火落ちが発生した造り酒屋は六七場もあった。火落ち菌は乳酸菌の一種で、殺菌作用のあるアルコールを好む特殊な菌である。火落ちをした酒は、白濁し香味が悪くなる。火落ちは、造り酒屋を悩ませる大きな問題であった。それに対し、腐敗による甚しい被害は無くなったと言える。しかし腐造の驚異が無くなったわけではない。
 酒税は相変わらず高く、国税の39%を占め、驚くことの間接税の76%にも及んでいる。

 大正期は寒造りが基本であった。それは今でも変わらないが、それに挑戦しようとした試みが千葉県にあった。
 寒造りでは、その酒造設備は一年の四分の三は遊んでいることになる。それを活用し、一年通して酒造りができれば、大幅に増産でき、かつ資金繰りも楽になる。冷蔵装置の整備と酒造技術の確立がそれを可能に見せた。またそれは家業から企業への転換の足がかりにもなる。しかしそれは、早すぎた挑戦になってしまう。

 大正八年、市川市に関東酒造株式会社が設立される。県下の有力な酒造家が協力した。しかし、激しい競争を続ける酒造業界は、関東酒造促進派と反対派に二分され、裁判まで発展した。しこりを残しながら準備は進められ、大型冷蔵庫を設備し、飛躍的な生産の増加を目指した。
 大正九年から「関東一」「関東盛」と名付けられ、一三七二石醸造される。翌年は倍増し、十一年は最高の三二九九石を記録する。しかし、十二年は関東大震災の影響で減少し、それから尻つぼみに減少し、ついに大正十五年には休造する。
 大正一〇年の報告書によれば、品質悪化のため三月四日に仕込みを休止している。仕込み水の変質が原因と考え試験醸造を実施、満足する成果を得て七月二一日から夏季醸造に入る。しかし四月から八月は安定した酒造りは難しかったようだ。
 決算は残念ながら赤字に終わる。翌年への持ち越しは七九二石であった。不況も手伝い酒は売れなくなる。夏の新酒は、消費者にも受け入れられない。麹くさい新酒より古酒の方が高い時代であった。また、温度管理はしたものの湿度などは考慮されず、どうしても酒質は劣ってしまった。
 次第に清酒の貯蔵保管が問題化し、ついに負債を抱えたまま解散に追い込まれる。
飯沼社長(甲子正宗)は、全ての負債を引き受け、他の株主には損害を与えなかった。
 なお大正七年、同様な目的で帝国酒造が市川市に設立されている。帝国酒造は味醂と焼酎を生産した。帝国酒造の味醂と焼酎は、千葉県内の生産量の多くを占め、焼酎はほぼ寡占状態だった。


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