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千葉の酒物語り

(その三)

二、千葉の酒物語り
 〔2〕近代の酒造り

 江戸から明治へ、近世から近代へと、変革の嵐の中で、酒造業も激しく翻弄されていった。
 明治元年(1868年)、明治政府は「商法大意」を公布し、株仲間の特権と独占を排除し、営業自由の原則を発表する。しかし酒造業は例外とされ、旧酒造株は酒造鑑札に書き換えるだけで、旧制度を残す。
 明治政府は、大地主などの有力者である酒造家達の特権を承諾し、その代わり高額な酒税の負担を求めたのである。株書換料(一時冥加)として、株高一〇〇石につき二〇両もの賦課金を命じた。あまりに高額のため三ヶ月後、政府は免許高の三分の一造りを布告し、その代償に一時冥加を一〇両に半減する。

 その年、佐原村の酒造高は一万六七〇〇石。株書換料は三三四〇両となる。兵庫県灘では二〇両の割合で支払っているので、減税分の返還運動が起きる。灘地方三郡で酒造株高五万五〇〇〇石といわれているが、佐原村のように一村でこれほど大規模な酒造は日本有数だった。
 佐原の酒造技術が進んでいたのは、秋田藩の酒造を振興させるため、奉行の佐藤時之助が佐原に出向いたことからも分かる。そして佐原村の酒造技術者「星野友七」しを秋田へ招聘する。星野氏は秋田藩内の各地を巡回し酒造を指導、酒造の改善や弟子の要請に努力し、門下生は一〇〇人を超える。優秀な酒造技術集団は「星野杜氏」と呼ばれ秋田近代酒造の基礎を築いた。

 明治二年(1869)、酒造税は、営業税(一時冥課・二〇両)と醸造税(年々冥課・一〇両)の二本立てになる。
明治四年、明治政府は独自の酒税制度「清酒濁酒醤油鑑札収与並ニ方法規則」を公布する。連綿と続いた酒造株、酒造鑑札を回収し、免許鑑札を交付した。生産統制を廃止し、既存酒造家の権利の保護を廃止する。酒造業も遅れて自由競争の時代に入っていった。新法の効果で新規の酒造家が続出する。
 しかしそのころから佐原の酒造高の減少が目立つようになってくる。新規酒造者が増え、確実に増す酒税で、酒造りを独占するうまみが無くなってきていたと思われる。
 そのとおりに、新政府の基盤づくりや外国との度重なる戦争の戦費の調達で、酒税は増税に次ぐ増税が課される。明治四一年には造石税は一石当たり20円となり、明治十一年と比べれば、三十年でなんと二十倍にふくれあがっている。増税は酒の小売価格に跳ね返ってくる。明治一〇年には上等酒一升の価格は四五厘であったが、明治三五年には三一銭七厘と二五年で七倍となった。

 明治政府は、ほぼ10年おきに戦争を繰り返し、膨大な戦費をむさぼった。政府はその経費を酒税に求めた。
 明治一八年当時の千葉県の国税の内、地租(地価税)は86%で、醤油税4.2%、酒税は3.1%にすぎない。しかし明治三四年には、地租は43.3%まで減り、酒税は37.1%、醤油税は13.1%を占めるようになる。この傾向は全国で同様だ。当時はまだ他の産業は幼稚で比較にならず、そのしわ寄せを酒と醤油がかぶったといえる。「日清、日露の戦争は酒税で戦った」とささやかれたほどだ。
 政府は重い酒税を課す一方で、自醸酒を厳しく取り締まった。明治一九年には清酒を、明治三二年には濁酒、焼酎もいっさいの自家醸造を禁止した。伝統の一つが立ち切れとなり、庶民のささやかな楽しみが激しい取り締まりを受けるようになる。

 全国の造り酒屋は、過酷なまでの大増税に対し、自由民権運動と結びつき大きな減税運動を起こす。明治一四年「日本全国の酒屋会議を開かんとする書」で結束を呼びかける。政府は激しく弾圧し、酒造人の召集さえも禁止される。しかし酒造家達は粘り強く運動し、やがて全国規模の連合会まで発展してゆく。
 千葉県の酒造家も結束の必要性に迫られた。各郡ごとに酒造組合が結成される。明治二四年「千葉県夷隅郡酒造組合」が発足、以後次々組合は発足するが、やがて税務所管内を一区域として設立することになり、県内に九つの組合が誕生している。
 明治政府は、酒造組合をコントロールしやすいよう、上からの組織化を目指した。明治三八年酒造組合法が発布され、「連合会」解散し新法に基づく酒造組合連合会を結成する。
 しかし酒造りは自家醸造の取り締まりだけが厳しくなり、酒税は増税の一途をたどった。全国規模の運動は挫折したと言える。

 明治期の千葉の酒造りを見てみよう。明治十二酒造年度、千葉県の清酒醸造家は八百人、醸造石高は九万八千五百六十五石で全国26位である。一軒当たりの酒増量は全国平均をかなり下回る。この年は明治期における最高酒造量となり、全国で五〇〇万石あまりを醸造している。
 特徴的なのが千葉県の濁酒の醸造が飛び抜けて多いことだ。全国の23%を占める。次いで東京、神奈川と続く。東京やその近郊に集まった大衆、没落した武士などは高い清酒より濁酒を選んだ。
 さらに千葉県は焼酎の生産も多い。鹿児島、熊本に次いで3位だ。千葉の焼酎は、酒粕を原料とした「カストリ焼酎」だ。本来のカストリ焼酎は薫り高く癖もない良質なものだった。第二次大戦後に密造された悪質な焼酎がカストリと呼ばれたので誤解を受けている。
 明治十二年八〇〇軒あった造り酒屋は、四二年には二〇九軒まで減少する。明治二八年の酒造家番付には東の三一番目に秋本三左衛門、西の四六番目に堀切紋次郎が見える。どちらも味醂の生産で知られる。堀切紋次郎は明治三年に酒造を開始し、後にキッコーマンへと経営を移している。
 西の八三番目に神崎町の寺田菊之助(現・寺田本家/香取)が、八六番目に飯沼喜一郎(現・飯沼本家/甲子正宗)が続く。この両者は江戸時代から現在までめざましい活躍を続けています。
 千葉の酒造は香取郡が最も多いが、ほぼ全土で均等に行われている。
「関東灘」は私語となり、佐原の酒は衰退する。佐原市の商工業の衰退に歩調を合わせるように。交通手段も水運から鉄道の陸上運送に移ったのも、それに拍車をかけた。

 明治三七年、大蔵省は醸造試験所を設立する。当時の酒造は経験的な理解であり、杜氏のカンと経験にたより、メカニズムまでは解明されていなかった。酒造技術はまだ未熟で、火落ちや腐造も少なくなかった。腐造によって酒造家は倒産の危機に、杜氏は責任をとり自殺することもあった。政府にとっても酒税が徴収できなければ大問題である。
 醸造試験場の指導は地方の小さな造り酒屋まで行き渡り、酒造技術は向上していった。
 また明治四〇年から始まった全国清酒品評会も酒質の向上を促進させた。第一回品評会の上位酒の平均は、日本酒度プラス10.32度、アルコール度17.066%で、現在の平均よりかなり辛口で、高アルコールある。千葉県からは三〇点が出品され、二等に一点、三等に五点入選している。

 全国の酒は確実にうまくなった。しかし画一的な指導で、特徴は薄まり平均化していった。
 醸造試験場は明治四二年新技術を発明する。江戸時代に確立した生モト造りを改良した、山卸廃止モト造り(*山廃モト)だ。それまでの重労働だったモトすり作業を省略させ、蔵人の労働を大きく軽減した。翌年には、江田鎌治郎氏が乳酸を添加する「速醸モト」を考案する。現在でもほとんどの酒蔵で利用している優れた醸造法である。
当時の記録では、生モトでの酒母の製造期間は約20日であったが、山廃なら15〜6日、速醸モトならわずか6日ほどでよかった。温度管理も楽になり危険性も減少する。温暖な千葉県では、安全に醸造を行うため、非常に早期に速醸モトを導入した。高梨泰一氏(千葉市)や飯倉清右衛門(旭市)はその先駆者である。

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